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「書評」第14号分

「書評」第14号分

岡田斗司夫『いつまでもデブと思うなよ』(新潮新書 2007年)/評者・万里小路信房

 最初手に取った時は、最近流行っている新訳の一種だと思った。だってそうだろう、このタイトルを見てスティーブン・キングの『痩せゆく男』を思い浮かべないほうがどうかしている。しかし評者の予想は裏切られた。それも最も予期しなかった方向にだ。

 筆者については聞き覚えのある方もおられよう。評者は寡聞にして知らなかったのだが筆者の岡田氏はコミケでロケット本を販売していた方だそうだ。そういえば同人誌の詰まったダンボールを積み上げた上で呵呵大笑する巨体を見た覚えがある。この作品はそのような氏が正にわが身を削って書き上げた渾身のホラー小説である。

 この作品の主人公はとてつもなく肥えていた。そしてとてつもなく怠惰であった。フロに入るのも億劫なある日、体のあちこちがかゆくて掻いていると垢がボロボロ落ちてくる。面白くなってボリボリと垢を落としていくとその垢は自分と同じくらいの分量になった。そこで主人公はその垢で人形を作り、完成するとそれを「デブ」と呼び、面倒で退屈な仕事は全部「デブ」に押し付けて、自分はコミケの原稿ばかり書いていました。そんなある日、コミケで出す新刊の面倒な編集作業を「デブ」に任せたときから人形に自我が目覚めはじめ…。

 評者は物語の最初の数ページで結末が予想できた。実際、その結末と予想とでは大きく食い違う事はなかった。しかし読みすすめていくうちに恐ろしさが募ってきた。終末に「デブ」が「いつまでも「デブ」と思うなよ」と言うシーンでは鳥肌さえ立った。この作品のような使役される者の反乱というテーマはチャペックの『山椒魚戦争』以来の使い古されたものに過ぎない。そのような古典的、陳腐な主題がこうまで背筋の凍るホラーになるとは思わなかった。氏の次回作に大いに期待したい。

田村裕『ホームレス中学生』(ワニブックス 2007年)/評者・肉十八

 幼い頃から●ッグイシューの販売員の姿に憧れてきた「私」(著者)は、中学入学を機に、奈良の自宅を親兄弟ともども焼却し、「ホームレス中学生」として華々しくデビューする。早速、田原本の駅前に乗り込んでビ●グイシュー販売員としての活躍を試みるも、その二年後に、ゴミ箱に捨ててある雑誌を拾い集めて駅前で販売することがビッ●イシュー販売ではないことに気づき、大きな挫折を味わう。

 気づけば卒業までわずか数ヶ月、このままでは、「ビッグ●シュー販売員」はおろか「中学生」という肩書きも失い、単なるホームレスとして生涯を送らねばならない……焦る心を抑えようと、新居のダンボールハウスの壁をかきむしり、勢い余って壁に喰らいつく著者。

 すると、ちょうど喰らいついた箇所が「比内鳥」と印刷されたダンボールの、しかも鳥の血が染み込んだ部分であり、これが予想以上に美味であることを発見する。その直後にタイミングよく家庭訪問で著者のもとを訪れたのが中学校担任教師役にして、東野●治郎と豚の間に生れた、まさしく「豚児」として有吊な●野英心。著者はこの東●英心の訪問を「天の恵み」と察して、これを即座に撲殺。

 ●野の肉と比内鳥のダンボールをあいびきにして、「ダンボール肉まん」と称して大阪の川口居留地で販売したところ、これが地元民相手に飛ぶように売れ、その後、ゲテモノ料理の鉄人として名を成して見事に一財産を築いた……という落語の「黄金餅」が如きノンフィクション・サクセスストーリー。

 現在、著者には、殺人及び死体損壊、現住建造物等放火の容疑がかけられ、目下全国指名手配中であるが、著者自身は印税生活兼逃亡生活を続けながら、未だ関西地方に潜伏中とのこと。手がかりの一つとなる著者名の「田村裕」も、ひねりも個性も感じられない名称から恐らく偽名であろうとの説が専らだ。更には、著者が再びペンネームを変えて、本書の続編のゲテモノ料理発見本として執筆・刊行したのが、現在本書に負けず劣らずベストセラーとなっている『ねこ鍋』であることは、ファンの中では周知の事実である。

 著者の今後ますますの活躍が繰り広げられる前に、県警による速やかな逮捕劇が繰り広げられることを一小市民として願うばかりである。

渡辺淳一『鈍感力』(集英社 2007年)/評者・逆叉鈍感

 男は鈍感になってからが勝負である。そう渡辺先生は主張されている。年齢を重ね、五感が鈍っていくとともに、性的刺戟に対しても鈊感になっていくのは当然だろう。しかしそのときこそが勝負なのだと。若い時分なら、ちょっとしたことでも刺戟を得ることができたし、一晩のうちに何度も対戦を交えることもできた。身体がそれを許したからである。しかし歳をとるとそういうわけにもいかない。だからといってはあきらめてはいけないのだ。そもそも人間と動物とを画するものとは何か? イマジネーションである。とするなら、若さにあかせたセックスはむしろ動物的だといえ、身体が思うように動かなくなり、感覚も鈊くなった老年期こそ真に人間的なセックスを愉しむチャンスではないか。考えてもみたまえ。朝立ちしなくなった、陰毛に白髪が混じるようになった。そんなことにいちいちショックを受けてセックスをやめてしまうのはあまりにも愚かではないか! チンポが勃たなくなったっていいじゃないか。そのときこそイマジネーションで補うのだ。だって、人間だもの。

 渡辺先生は本書のなかで、だいたいそんなことを提唱されておられる。「鈍感力」とはようするに、渡辺先生が世の老いたる男たちに向けた新たなセックスライフの提案なのだ。巻末ではさらに、掌編小説仕立てでその実践例をいくつか示されている。どれもこれも今夜からでも役に立ちそうな内容である。

 なお、書評子は近頃めっきり視力が落ちてしまい、読書にも支障が出るようになってきた。そのため本書もまともに読むことができず、残念なことはなはだしい。それでも何とか、イマジネーションで補いこの書評を書きあげた次第である。本を読まずに、もとい、本が読めずに書評したっていいじゃないか。そのときこそイマジネーションで補うのだ。だって、人間だもの。

天川彩『タイヨウのうた』(ソニーマガジンズ 2006年)/評者・万里小路信房

 これは近未来野球小説である、そう言い切ることできたらどんなに楽なことだろうか。

 主人公はタレントであったがその人気が絶頂のさなか芸能界を引退、突如プロ野球選手となった。弱小球団に入団した主人公が幾多の試練を乗越え名野手と呼ばれるようになるまでを描いていると言ってしまえば実に単純な物語であるが、主人公が苦悩する試練はむしろ私生活の、娘との関係である。主人公には離婚後、男手一つで育てた大学生になる娘がいる。娘は父を嫌い、父によって付けられた名前を憎んでさえいる。彼女は「改名運動」(アイデンティティの中核である名前は自分で決めるべきであり、そのために改名の手続きを簡便にする法律の制定を目指す運動)にのめりこみ、父への反抗心からであろうかその活動のリーダーである妻子ある中年男性と同棲している。しかし主人公が苦難を乗越えながら野球道を邁進するひたむきな姿を目撃することによって、彼女は次第に父を理解するようになっていく。

 この小説はありえないような話に満ちている。

 まず芸能界からプロ野球選手に転進するという設定自体無茶であり、主人公のライバルである外人選手ミーシャ・ストロガノフの出身はソ連だったりする。仕事にひたむきな父の背中を見て年頃の娘が考えを改めるというお話自体ありえないことである。でも少し待ってほしい。現代のベストセラーを支える「普段、本を読まない人達」の求めるものは物語なのである。ありきたりでも、嘘っぽくても安心して読むことのできる物語なのである。

 ところで評者はこの作品に描かれている「改名運動」について著者の慧眼に驚き、納得した。現在子どもに普通では読めないような特殊な名前をつける親が多い。親は子どもを自分の所有物のつもりで扱い、詩人になったつもりで名付けたのだろうが、そんな変な名前をつけられた子どもこそいい迷惑だろう。著者はそのような子どもたちが大人になるころには改名を求める人たちが運動を展開し大きな社会問題となることを予言している。

 なお、ありえない話をもう一つ。主人公の所属し、小説の舞台となる球団は一九九二年に横浜ベイスターズと名をかえた大洋ホエールズであり、小説のタイトルはこの球団名と主人公杉浦太陽の名のダブルミーニングになっている。最終章で、主人公とその娘、希空(のあ)が二人で、大洋ホエールズ応援歌「行くぞ大洋」を歌うシーンでは不覚にもこぼれる涙を止めることが出来なかった。野球ファン以外にも、これから父親になるすべての男性に読んでもらいたい作品である。

美嘉『恋空』(スターツ出版 2006年)/評者・徒然亭草稿

 女子中高生のあいだで大人気となったケータイ小説である。映画化を機に私も読んでみた。お世辞にも文章は上手だとはいえない。が、プリミティブな感動のようなものを覚えた。頭の悪い(失礼)女子中学生たちにウケるのも納得である。

 舞台は終戦直後のヒロシマ。戦前、高校野球(原文ママ。正確には全国中等学校優勝野球大会と書くべきだろうが、ここは目をつぶろう)の広島県代表校のエースとして活躍した一人の青年が、戦時中の学徒動員の最中に被爆した。辛うじて一命をとりとめるも、戦後はずっと原爆症に苦しむこととなる。そんな彼とひょんなことで知り合った少女。彼女はやがて、日々衰弱していく青年につきっきりで看病をすることとなる。

 そんななか、広島にプロ野球チームを結成するという話が持ち上がった。青年もいつの日か、地元球団の選手となりマウンドに立つことを夢見る。結局選手にはなれなかったものの、原爆ドーム近くに広島市民球場が落成した際、その記念試合で始球式を行なうこととなる。が、彼女に付き添われてマウンドに立った青年は、ボールを投げようとした瞬間に崩れ落ち、そのまま息を引き取った。その最期の言葉は、「空に、鯉が見えるよ……」というものであった。

 それから数十年後。広島東洋カープが念願の初優勝を決めようかという試合が市民球場で繰り広げられていた。そのスタンドにはかつての少女の姿があった。そして彼女の手元にはかつてその球場で息絶えた青年の遺影が……。見渡せば、球場のあちこちで鯉のぼりが振られている。まさに、「鯉空」。それはまた、少女と青年の永遠の「恋空」でもあった――。

 とまあ、あらすじはざっとこんなものである。はっきりいってベタベタである。しかし、拙いながらも、その文章からは書き手の広島カープへの愛がひしひしと伝わってくるのだ。断言しよう。本書の著者は少女のような名前を名乗ってはいるが、実は熱烈なカープファンのおやじである、と。「彼」はおそらく、恋愛小説にかこつけて、その実カープの苦難と栄光の歴史を描きたかったのであろう。そして、その目的は見事に達成されていると思う。

 なお、本書はやはりカープファンとして知られる奥田民生主演で映画化された。

安野モヨコ『働きマン』(講談社 2004年~)/評者・肉十八

 毎日、朝の八時から翌日の朝八時の間、製パン工場のサンドイッチ班班長ピクルス担当として汗を流しつつも、一度は諦めたファッションリーダーに復帰する夢を捨てきれない日雇い人夫の主人公、千田是也子。彼女は立ち飲み屋のカストリで酔った勢いをきっかけに、革命的一攫千金を夢見て北方四島の観光船に密航を企てる。しかしその船は観光船にカモフラージュされた、実際はカムチャッカ沖で密猟したタラバ蟹をカニ缶詰にまで加工する海上の強制労働所「蟹工船」であった。危険な労働環境の中で高価なカニ缶の製造に明け暮れ、労働の合間に密輸品のウォッカをあおり、ときたま工業用アルコールを間違えて呑んで失明する同僚を笑い、製造工程で余ったカニミソとウニに舌鼓を打つ日々……そんなある日の作業中、是也子は缶詰の原料として間違えて届けられたセメントの樽の中に小さな木箱に隠された手紙が入っているのを見つける。それは、恋人を悲惨な工場爆破事故で亡くしたセメント袋を縫う女工からの、出会い系サイト入会を迫るダイレクトメールであった。是也子は素敵な男性との出会いを夢見て、賃金二年分を前借りしてこれに即入会。日々送られてくる会報『赤旗』を読むうちに、自分達の労働により生み出された稼ぎが船の持ち主である大資本家どもに上当に搾取されている事実に気づく。折しも文通相手のIT関連のベンチャー企業を経営していると称する男性へ送った恋文が宛先不明で戻ってきたことも重なり、怒りに震える是也子。彼女は意を決して横流し目的で保管していたセメントを体中に塗りこめ皮膚呼吸をシャットアウト。正体不明にして意識不明の新ヒーロー「働きマン」に大変身する。是也子は、文通相手への復讐と、その腹いせとしての大資本家撃滅のために、今、正に革命開戦の狼煙代わりの炊煙を上げたのであった…。

 本書は、平成プロレタリア文学の最高傑作にして、その壮大な世界観を背景に婦人労働者の心情を綴った特撮巨編。『リルケ詩集』と並んで遅い思春期と共に共産主義に目覚めた女工諸姉必読の書である。なお、本書の続編として、「働きマン」なる一共産党員として戦い続ける主人公が、塗りこんだセメントによる皮膚呼吸困難から人事上省に陥り、「赤線」を日本赤軍の最前線の戦場と間違えて吉原に憤然と乗り込んで精神疾患状態のまま大暴れするというバイオレンスアクション巨編「さくらん」があり、こちらもお薦めの1冊である。

メイ『赤い糸』(ゴマブックス 2007年)/評者・松原美由樹

 「ケータイ小説」から生まれたベストセラー小説のひとつ。今更説明する必要も無いと思うが、携帯電話で読むための小説サイトによって世に出た作品をこう呼ぶのであって、その版型は単行本であり携帯するには文庫本より不向きである。

 作者の多くは顔写真を出さず、極めてありふれた感じのハンドル・ネームを名乗る。商業作家としてイッパツ当てようという意図の無い潔さ、「私自身の事が書いてある」かのような身近なテーマで多くの女子高校生のハートを鷲づかみにしている。作者を「●●先生」ではなく「凛ちゃん」「メイちゃん」と呼ぶなど、昭和四十年代の「乙女ちっく」少女まんが作家に向けられる目線と同じ臭いを感じ、興味深い。かつて新井素子はSF小説で、氷室冴子は学園小説で「十代少女のモノローグ」を代弁していたが、(花井愛子は成人している主人公も少女の感覚で書き綴った)作品よりも作家が前面に出ている事と、主人公に才能や超能力があり読者が投影できないテーマであるところが、ケータイ小説とはまったく異なる。

 そう、ケータイ小説の主人公とは、名も無き「ワタシ」なのである。では身近なテーマとは何か? というと、これが「十代の性」と「不治の病」である。携帯電話という新時代のメディアで展開されているストーリーが、過去の文芸作品、はたまた昭和五十年代頃から流行した「コバルトシリーズ」などのティーンズ向け文庫(それも実録シリーズのほう)同様「不治の病と闘う十代の青春」「望まない・婚姻が成立しえない年齢での妊娠」である事には驚愕を覚えた。どこまで行っても人類のすることはエッチ妊娠そして死なのである。ただ、初期のコバルトシリーズの主人公達は敵対キャラとしてまっとうな両親や学校側の人物が登場し、不慮の事故的な行為によってできてしまった胎児を堕胎し人生の軌道修正を…と試み、主人公達は絶対の存在である「胎児」を守り戦う意志をみせていたように思う。がケータイ小説の主人公達は、妊娠以前には自己の存在理由がみいだせないでいる。自身が親とのコミュニケーションを取れていず、親になることによってはじめて家族や兄弟のありがたみを知るという構造のものが多い。もしかすると、昭和のコバルトシリーズの主人公達が意地で産んでしまった子供達が、誕生後、ことごとく「おまえさえ産まなければ…」と後悔され、その世代が親になり子供を愛せないのだろうか? などと考えながら読むのもおすすめである。

新村出『広辞苑』(岩波書店 2008年刊行予定)/評者・肉十八

 世の人々に長く愛読され続けているベストセラーシリーズの第六巻。

「売らんかな」の精神で、売り文句や宣伝文句ばかりに腐心し、装丁を著名な漫画家に描かせたり、はたまた著者のタレント性だの見てくれだの過去だの等々まで持ち出して、さまざまな形で世に作品のアピールを試みている数多のエッセイ、物語群が溢れる中で、本書は、流行にも流されず奇もてらわない装丁と構成で勝負している正統派フィクションである。その一種の風格すら感じる重厚(というか物理的に重い)な装丁には、ただただ圧倒される。さらにK極夏彦先生も裸足どころか全裸で逃げ出す(ただし皮手袋は外さずに)そのページ量と分厚さは、寝所に持ち込めば正に「枕を高くして眠れる」ほどの安心感を読む前から読者に与えることであろう。

 何より本書で注目すべきは、作品内で綴られる語彙の豊富さと登場人物の数の多さである。語彙の貧しさを棚上げして《援助交際》《妊娠》《エイズ》の単語のみで三題噺的&夏休みの宿題的な腐文を作成して「作品」とのたまうケータイ小説生産者(この手の著者名が「Toshi」だの「メイ」だの「美帆」だのと無闇に短い上に使用される漢字が少ないのは、自分のペンネームをつける語彙すら不足している故であろうか)には、本書を枕にさせるのすら生ぬるい。五十冊を敷き布団、五十冊を掛布団として、圧死即永眠後、来世にて文学以外の仕事に就くことをお薦めしたい。

 そんな本作の欠点を強いてあげるとすれば、その登場人物の多さや情景描写の多彩さの割に全体的なストーリー展開が余りにシンプルかつ意外性に乏しいところであろうか。しかしその欠点を補って余りあるほどに、どのページを見ても無駄な修飾語や引き伸ばしのない簡潔な文体には非常に好感が持てるし、どこから読んでも読者を決して飽きさせることはない、また続編でありながら前作を読んだことのない人でも十分に楽しめる物語構成には心底、脱帽である。

 著者の新村氏は、76年生まれの百三十一歳(生年より計算)。本作は10年ぶりの続編となるが、その筆使いにブランクによる衰えは全く感じられない。著者自身のメディア露出や発言が殆どない(少なくとも本評者は寡聞にして聞いたことがない)ところも、昨今、量産されているタレント的作家(タレントが作家を吊乗っているのが現状だが)とは一線を画しており、これも幅広い層に支持される理由の一つであろう。今後の活躍が益々期待される著者だ。

 年末年始は、仕事や学業から離れて一年を振り返り来年への思いを深めるとき。そんな年末年始だからこそ、時間をたっぷり取って読んでみたい1冊である。