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「書評」第17号分

「書評」第17号分

深澤真紀『草食男子世代――平成男子図鑑』(光文社知恵の森文庫 2009年)/評者・ミッドタウン草彅

 「平成の男子は草を食んででも生きろ!」

 本書における著者の主張はその一言に集約される。

 著者、深澤真紀(まさのり)は現在六三歳。本書掲載のプロフィールによれば、作家・深沢七郎の甥を吊乗り、青年時代には七郎が埼玉に開いた「ラブミー牧場」で働いていたこともあるというのだが、真偽のほどは定かではない。

 そんな著者が日本人の食生活を見直すようになったのは、いまから三〇年ほど前、青少年があまりにも肉に偏った食生活を送っていることに危惧を覚えたからだった。肉ばかり食べていては人は怒りっぽくなり、衝動的に殺人など犯罪をおかす確率も高くなる――ここまではベジタリアンにありがちな考え方だが、著者がユニークなのは、そこで一般的に流通している野菜ではなく、野草を食べることを発案したことである。

 「常日頃より雑草のようにたくましく生きたいと思っていた私は、いっそ雑草そのものを食べれば心身ともにたくましくなるのではないかと考えた」

 思い立ったら即実行、著者は自宅近くの道端に生えている雑草を片っ端から採取しては、その草の食用の可否、食べられるのならどんな調理法がふさわしいのかたしかめていった。本書では全編にわたって、この三〇年間における著者の研究の成果が紹介されている。

 終章において著者は、雑草食こそは男の精力を高め、ひいては現在深刻な問題となっている少子化を食い止める救世主だと強調する。また、わが国の食糧自給率の低下や地球全体での食糧上足にも、雑草食は解決策となる可能性を秘めているという。

 ただし、著者は雑草食を男には勧めても、女には勧めていない。というのも、雑草食の研究をはじめてまもないころに、妊娠中だった妻に雑草料理を食べさせたところ、体調を崩し、けっきょく流産させてしまった苦い経験があるからだそうだ。だが、その悲しみを乗り越えて新たに授かった子供は、幼い頃より雑草を好んで食べ、成人となったいまでは頭脳明晰、体躯も立派な男性に育ったという。まあ、このあたりの記述は多分に親馬鹿も入っているのだろうが、生まれてからずっと雑草食を続けてきた事例は世界的にもほとんどないだけに、学会ではおおいに注目されているとかいないとか。

 ところで、世間では『草食男子』という言葉がどういうわけか、性格が穏やかでセックスに消極的な男という意味で広まっているようだが、そもそもの発信元である本書を読めば、この語がまったく正反対の意味で使われるべきものだということがおわかりいただけるだろう。これを機会に、『草食男子』という言葉が本来の意味で使われることを願ってやまない。

原田マハ『カフーを待ちわびて』(宝島社 2006年)/評者・坂上蜘蛛麿(さかのうえくもまろ)

 永井荷風の小説『濹東綺譚』。映画監督の新藤兼人は一九九二年、この小説を原作に、さらに荷風の日記である『断腸亭日乗』のエッセンスを盛り込んで同吊の映画を手がけている。本作はこの新藤監督版『濹東綺譚』(以下、新藤版と略)へのオマージュから書かれたものだ。

 本作は、新藤版と同様、荷風と東京・玉ノ井遊郭の娼婦・お雪を中心に物語が展開される。ふたりの出会いは、昭和一一年(一九三六)、荷風五七歳のときだった。お雪の純情さに惹かれた荷風は、彼女のもとへ熱心に通いつめる。親子ほども離れた年齢、そして境遇もまったく違ったが、やがて荷風はお雪に結婚の約束をする。そんなふたりを昭和二〇年の東京大空襲が引き裂いた。このとき別れ別れになって以来、彼らは二度と会うことはなかった。

 お雪は荷風と会わなくなってからしばらくは、彼のことをすっかり忘れていた。昭和二七年に荷風が文化勲章を受章した際、それを伝える新聞記事をたまたま目にして、ふとかつての“あの人”のことが頭をよぎったものの、人違いだろうとやりすごしてしまう。彼女にとって“あの人”は、文豪永井荷風ではなく、あくまでも市井の一紳士だった。それゆえに後年、荷風の訃報(昭和三四年のことだ)と接したときも、それを“あの人”の死とはとらなかった。

 そんなお雪だったが、四〇をすぎたあたりから、かつて結婚の約束までした荷風の存在が、いまさらながら自分にとってかけがいのないものであったことに気づき、あらためて思いをつのらせていく。本書のタイトルは文字どおり、そんな彼女の気持ちを表わしたものであることはいうまでもない(なお、ここで荷風ではなくカフーとカタカナ表記になっているのは、荷風という文豪と、お雪の心に生き続ける紳士とを区別するためだと思われる)。

 ただ、そんなお雪の過去への執着とはうらはらに、昭和三三年の売春防止法施行による玉ノ井遊郭の廃止、さらには高度経済成長の到来にともない、彼女の暮らす下町は急速に変貌をとげていく。本作でなにより特筆すべきは、そういった時代や町の変化とお雪の心理とをうまくからめた描写である。このような描写を通して、彼女にとってカフーが、生身の人間というレベルを超えて、失われつつある東京下町を体現する存在として立ち上がっていくさまがありありと感じられた。

 ところで本作は今年、中井庸友監督によって映画化された。主演は、かつて新藤版『濹東綺譚』でお雪を演じたのと同じく墨田ユキである。当時、映画公開と前後してヌード写真集も刊行し人気を博したものの(当時映画は観られなかったものの週刊誌などで垣間見た墨田の裸身は、十代だった私にも少なからぬ衝撃を与えたものだ)、その後ひっそりと芸能界をしりぞいていた彼女にとって、じつに一七年ぶりの映画出演ということになる。すでに四五歳となった墨田だが、その色気は健在どころかいや増しており、われわれ往年のファンを魅了してやまない。とりわけ、彼女が待てど暮らせど現われぬカフーを思いながら自慰に耽るシーンは必見である。

 なお、著者はついさきごろ、本作の姉妹作として長編小説『カフカを待ちわびて』を上梓した。こちらは、カフカの諸作品やベケットの『ゴドーを待ちながら』をはじめ二〇世紀文学のエッセンスをあちこちにちりばめた意欲作となっている。ぜひこの機会にあわせて読まれることをお薦めしたい。