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宇多田照實

宇多田照實

【うただ-てるざね】①音楽プロデューサー ②「宇多田ヒカル」(藤圭子との共作) ③戦国武将 ④1548年(天文17年)、周防国佐波郡徳地の小大名として生まれる。宇多田家は周防国を治める大内氏に代々重臣として仕えていたが、1559年に毛利家の侵攻により大内氏は滅亡、照實の父・照竹(しょうちく)もこのとき自害した。照實自身は毛利氏の配下につき、16歳で毛利元就による出雲の尼子氏攻めに加わったのが初陣となる。1566年(永禄9年)に尼子氏が降伏したのちも元就の甥・吉川元長らとともに山陰各地で尼子残党との戦いを展開し、元就から重用されることとなった。1582年(天正10年)、毛利氏と羽柴秀吉が和睦した直後、奥州安倍氏の血を引く藤姫を正室に迎え入れ、翌年一女である光姫をもうける。藤姫は当時流行し始めていた三味線の名手として知られたが、光姫は母からその才を受け継ぐとともに、和歌もよくした(特に醍醐の花見の際に秀吉に献上された歌は高く評価された)。照實はその後、秀吉の命により毛利輝元(元就の嫡孫)に従って九州攻めに参加。九州が平定されると肥後国球磨郡免田の小大名・岩下氏からその息子・和裕(のち和明と改名)を養子に迎える*1。照實の仕えた毛利輝元は1600年(慶長5年)の関が原の戦いで西軍の総大将に担ぎ上げられるも不戦敗を喫し、徳川家康に減封された。しかし照實の領地である徳地は減封を免れ、宇多田家は照實が大往生を遂げたのちも*2明治維新まで代々領主を務めることとなった。/藤圭子とは6度も結婚・離婚を繰り返しているらしい。/病気になった娘の代理として『いいとも』テレフォンショッキングに出演したことがある。

 凡例:①音楽家としての属性②代表曲③副業④その他情報

 (リスト::天使の辞典::サブカルミュージシャン篇

*1:ちなみに光姫の夫となった和明は紀谷士庵(きやしあん)を名乗る絵師・茶人でもあったが、妻の名声にはおよそ及ばなかったと伝えられる。

*2:なお照實の没年はなぜかいまもってあきらかにはされていない。

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