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宮澤喜一

宮澤喜一

【みやざわ-きいち】①2007年6月28日 ②元大蔵官僚、政治家、第78代内閣総理大臣 ③87歳 ④福田赳夫内閣時代の1977年、テレビ朝日が現役政治記者100人を対象に行なった「5年後の政治指導者予想」で、宮澤は所属派閥・宏池会(当時は大平派)の大平正芳などを抜いて一位に選ばれた。没後の各紙の社説でも、「保守本流の正統派」「護憲派」「戦後政治の生き証人」といったぐあいに、宮澤に対し肯定的な評価が目立ったことからも、マスコミ、とりわけ新聞社の政治記者からの人気は高かったといえる。実際に行なった政治の成果はともかく、聞き書きを含め多くの著書を残したことは素直に評価されるべきではなかろうか。ただし、リーダーになるようなタイプではなかったことはやはり間違いないと思う。/宮澤内閣が発足した1991年11月には、宮沢りえがヌード写真集『Santa Fe』を発売している。フジテレビはこれをパロディにして、翌年の元日の各紙に「宮沢家の一族」という広告を掲載した。/1992年12月発足の宮澤改造内閣では、郵政大臣として小泉純一郎を入閣させる。宮澤がなぜ、当時より郵政民営化論者だった小泉を郵政相に選んだかはいまもって不明。/大蔵官僚時代の1950年、蔵相だった池田勇人の秘書官として、講和条約打診のため訪米。当時31歳。このときの様子は後年、映画『小説吉田学校』でも描かれているが、同作で宮澤を演じたのは角野卓造である。/講和条約の調印された1951年、のちに宮澤とともにニューリーダーと呼ばれる竹下登は代用教員から島根県議に当選したばかりであり、安倍晋太郎は毎日新聞の記者で、岸信介の女婿となる前だった。宮澤は1962年、池田内閣で経済企画庁長官として初入閣。竹下と安倍は政務次官にもなっていなかった。年が5歳ほど年上とはいえ、いかに宮澤が若いうちから出世街道を歩んでいたかうかがえる。

 凡例:①命日②肩書③享年④雑感・トリビアetc.

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