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小特集「月九ドラマ『西遊記』」

小特集「月九ドラマ『西遊記』」

目次

 各記事の初出は『サブカル評論第9号(2005年12月)。同号の発行時期から気づかれた読者諸氏もいらっしゃるかと思うが、この小特集はフジテレビの月九版『西遊記』の放映がはじまる前に組まれたものである(ドラマの放映開始は同号発行の翌月)。その点を念頭においたうえで各記事を読まれたい。

はじめに(万里小路信房)

 今年一月より月曜、九時より放映された『西遊記』は様々な社会現象を巻き起こした。我々サブカル評論も問題の作品に対し我々なりの評論を行うべきではないかと考え、遅ればせながら今回小特集とすることになった。今回の『西遊記』が従来の『西遊記』と異なる点は、視聴者の問題意識のあり方によって、解釈の仕方が多様であることである。僕の評論と逆叉氏の評論とではこれが同じ作品に対する評論とは思えないほど内容がかけ離れている。しかしそのことこそが今回の『西遊記』が豊穣な物語であったことを強く語っているのではないだろうか。

 また今回は二本の評論のほかに、放映前から本作品に期待を寄せていた肉氏が見聞した『西遊記』予告篇制作発表の様子も掲載した。このような記事は他紙では見られないものであると自負している。まだ社会現象を巻き起こす前の、嵐の前の静けさのようなものを、是非感じ取ってもらいたい。

月九ドラマ『西遊記』論(万里小路信房)

 今回の『西遊記』(単に『西遊記』とする)では三蔵法師と孫悟空の関係に焦点が当てられ、猪八戒や沙悟浄の動きがなおざりにされたのは話数の都合があるとはいえ残念なことである。だがそのことによって三蔵法師と孫悟空の関係は今までになく、濃密に描き出すことに成功したといえる。

 この『西遊記』は脚本とも寓話性の強いもので、原作の「仏典を求めて」という部分を「幸せを求めて」の比喩として用い、まるで「オズの魔法使い」のドロシーのように三蔵法師が孫悟空・猪八戒・沙悟浄を引きつれ、旅をする。その過程で一行はさまざまな困難に出会い、特に三蔵法師と孫悟空は関係性を深めていく。そして最終話で天竺までたどり着くが、そこには求めていた「幸せ」などはなく、本当の幸せはごく身近なところにあるというそういうお話で終わらせている。いま何故、このような使い古されたテーマが繰り返されたのか。それは視聴者一人一人が考えなくてはいけない義務なのだろうと思う。

 また脚本だけではなく、演出の斬新さも特筆すべきであろう。一方で長期にわたる海外ロケなどという選択肢も確かにあったとは思われるが、本作では一貫して都内でのロケにこだわり、旅それ自体も馬と徒歩ではなく、都内を走る地下鉄(最近、その存在が公表された路線を含む)を使っていた。これに関しては反論も多く、また本作に対する批判の多くもそこに集中している。僕自身、最初に見たときはこれは『西遊記』ではないと拒否反応を起こした。しかし現在では、作品自体の寓話性を高める斬新な演出として評価している。最近の安易なリメイク(その多くは最新の技術による映像を売り物にしていたりする)とは異なる、『西遊記』の物語を解体し、再構築した新たな挑戦を賞賛すべきだと僕は考えている。

 新演出について言えば、また登場人物にも現代的な問題が投影され、今日的な描写がなされている。沙悟浄は自分探しのために天竺を目指し、猪八戒は趣味を続けるために興味のない仕事を黙々とこなし(地下鉄の車掌であるが、途中でドロップアウトし、その後は代わりにヌイグルミが置かれることになる)、孫悟空は純粋に愛を求め、超然とした描写をされることの多い三蔵法師ですら本作ではモラトリアムをもてあました存在として描かれ、最終話近くでは大いに悩む姿を見せているのである。このような安易な繰り返しに陥らない挑戦はやはり夏目雅子版『西遊記』と同じように後々まで残るのだと思う(でも個人的には牛魔王の城という設定の新宿都庁で人工肛門を抱えた渡哲也が出てくるのはやりすぎだと思う)。

 『西遊記』という何度も何度もさまざまな媒体で繰り返されてきた物語を映像化するにあたり、「原作に忠実」とか「新技術の導入」とか「リアリティ溢れる映像」とか「人気俳優の起用」などといった安易な方向に逃げることなく、「物語」を突き詰めた結晶のような本作品の制作は様々な困難があったと思われる。この『西遊記』にはヒーローはいないが、本作の制作陣は安易な制作に流れがちなヒーロー不在の世の中にあって、ヒーローたりえる人々だと思う。彼らのドラマも知りたいと思わされた。きっと彼らも幸せを探す旅人だったのだろう。

「本篇を超える内容を」――『西遊記』予告篇制作に意欲(肉十八)

 平成十八年一月より、満を持してラジオたんぱ及び系列局で放送される月九ドラマ『西遊記』。その「予告篇」の制作発表会が、三十日都内某会場にて行われた。

 会見には、監督の柳本晶一東洋紡)、脚本を担当する浅沼稲次郎(日本社会党)、照明助手の田宮高麿ら「よど号事件」関係者と、悟空役の左ト全(奇人)、三蔵役の天本英世(怪人)、八戒役の東野英心(豚人)、ほかに岸田森(吸血)、加藤嘉(遍路)、泉重千代(長寿)、北条時宗執権)、十三代目マハトマ・ガンジー(暗殺)、そして映画のクランクアップに合わせて六月に出所した新人の山口二矢などが出席。会場では参加者全員による堺屋太一を糾弾する檄文の朗読などが披露され、誠に華やかな会見となった。

 先日のパキスタン地震でも現地ボランティア団のリーダーとして救援物資の横流しなど華々しい活躍を見せてきた柳本監督だが、今回の予告篇制作について「バレー以外の監督は初めて。本篇を見ていない経験を活かしたオリジナリティーあふれる予告篇としたい」と並々ならぬ意欲を見せた。

 なお、今回試作品として紹介されたのは次の三点。

①『西遊記』次回予告

 (ナレーション 芥川○行)

 旅を続ける三蔵一行。途中の茶屋でうっかりホウ酸団子を食べ過ぎた猪八戒ことうっかり八兵衛を介抱後、速やかに埋葬している隙に、三蔵の持つ経典「山海経」は、将軍側用人ジョン万次郎の手に落ちる。後を追う悟空と矢七、そして井上。しかしその前に立ちはだかったのは、幕府転覆の企みを阻止せんとする根来衆頭領こと「黒蜥蜴」だった。悲しき親子の対面もつかの間、老中田沼の陰謀がお美代に迫る。危うしお美代。その時、妖刀「日本共産党」が暁の空に閃き悪を斬る。性は丹下、名は左膳。次回「仇討ち博多人形~天竺~」――それは次回の講釈で。

②『西遊記』次々回予告

 (ナレーション 中江真○)

 悪の組織ショッカーが極秘に建設した刺身工場に、鳴り物入りで潜入した悟空こと本郷猛(藤岡弘、)は、家庭用消化器のチューブにひき肉を詰めて売るという牛魔王(潮健児)の恐るべき計画を知る。この恐るべき村おこしを阻止するため、即座に函館在住の現地妻(別居中)に報告・連絡・相談(ほうれんそう)を試みるも、交換手の手違いで電話は奇しくも「ジャパネットたかた」に。正味二時間十四分にわたる押し問答の末、羽毛布団とスワヒリ語専用の電子辞書を大量購入のピンチに追い込まれたその時、本郷の目の前に現れた謎の「ゴリラ職人」の正体とは?

 次回、連続テレビ小説『西遊記』、「恐怖、秘境六万キロ! 魔境ボルネオ奥地で、不況にあえぐ原人バーゴンを見た!」にご期待下さい。

③『西遊記』次々々回予告

 (声 野沢○子)

 オッス、オラ悟空!(四十五歳・無職・愛媛県出身・佐渡ヶ嶽部屋) みんなドラ○ンボール見てっか? オラ、そんなくだらねえモン観てるヒマねえぞ! いま、アンドロメダ大星雲から飛んでくる「スカラー波」ってヤツと戦っているんだ! こんなスゲェヤツら初めてだぞ! 今もオラの前を小さな大名行列とピンク色のゾウが通り過ぎてったんだ! さっきは冥王星からの刺客が玄関から入り込んできたんで如意棒(とマジックで殴り書きされた金属バット)で目と鼻と耳と口と尻の穴から血が出るまでぶん殴ってやったら、亀仙人のジッちゃんが倒れてたんで、オラびっくりしたぞ! あ、見ろ!今度は天井から蟲がどしゃ降ってきた! 機械伯爵の総攻撃だ! オラわくわくしてきたぞ! プルプルもしてきたぞ!(禁断症状)みんなの臓器をオラに分けてくれ!(密売目的)そんな訳でみんな、来週も絶対見てくれよな!  …あっ、あれは西太后さ(以下判読不能)

 会見中、出演者が脚本家に襲いかかるなどのアクシデントもあったが、会見は終始和やかなムードに包まれていた。

 最後にグリーンピース会員の連名による監督への告訴状が公開されると、柳本監督は「捕鯨は日本の大切な文化。冷静に対処したい」とにっこり。同時に共演者たちからは会場隅で凶器を処分する山口を見たとの証言もあり、山口は体当たりの演技が売りの役者として、今後の成長が期待できそうだ。

  (狂同通信 文責・肉十八)

アジアの現状に真正面から立ち向かった新たな『西遊記』の誕生!(逆叉鈍甲)

 フジテレビで二〇〇六年の年頭より月曜夜九時、いわゆる月九枠でドラマ『西遊記』が放映された。筆者は、どうせ往年の名作ドラマの焼き直しだろうとたかをくくって見はじめたのだが、予想をはるかに越える展開に気がつけば全話を通して見てしまった。これほどテーマに社会性・歴史性をもちあわせ、なおかつエンターテインメントとしても練られたドラマは近年稀ではないだろうか。

 ドラマは初回から予想を大きく覆し、主役は孫悟空役の香取慎吾かと思いきや、実質上の主役は猪八戒役の伊藤淳史であった。しかも導入部は東京郊外の高校が舞台であり、伊藤は冴えない高校生・猪瀬信八(のぶや)として登場する。さほど太ってもいないのに「猪豚」と呼ばれる猪瀬少年は、教室ではおとなしいが、帰宅すると食事もとりあえず夜な夜なインターネットの掲示板への書き込みに熱中している。ちなみに彼の愛読書は『新ゴーマニズム宣言』と『嫌韓流』だ。

 そんなおとなしい猪瀬が、ある日、日本史の授業中にちょっとした弾みで激昂し、教師やクラスメイトたちに向かって声高に自分の歴史観を主張しはじめた。彼は学校で教えられる日本の近代史がすべて間違いだと断言し、先の戦争における日本軍の行動を全面的に肯定する。猪瀬の豹変ぶりにクラスメイトたちは冷ややかだったが、深津絵里演じる教師・三蔵法子(「みくらのりこ」と読む)は心配して、その日の放課後、彼を進路指導室に呼び出す。生徒と一対一で向かい合い、何とか諭そうとする三蔵だが、相手はなかなか自説を曲げようとしない。説諭に疲れた彼女は「ちょっと一息入れましょう」と、最近自分が気に入っているラベンダーティーを入れ、猪瀬にそっと差し出す。それまでの彼の硬直した態度を思えばいささか不思議な気もするが、素直にティーカップを手にしてまずはその香りを嗅ぐ猪瀬。そこで異変が起こる。彼は眩暈を起こしたのか、椅子から崩れ落ちるように床に倒れ込んでしまうのだ。あわてて「猪瀬君、猪瀬君!」と何度も呼び返す三蔵。しかし猪瀬は深い夢の世界へとはまり込んでいくのだった――。

 やがて猪瀬少年は「おい、八戒!」という声で目を覚ます。辺りを見まわせば、一面に荒野が広がっていた。自分を呼んだのは、まるで孫悟空のような輪っかを頭にはめた男(香取慎吾)であった。いや、実際に彼は悟空と呼ばれているらしい。しかしそのいでたちは旧日本陸軍の軍装である。彼以外にも、片言の日本語をしゃべるいかにも気弱そうな沙悟浄と呼ばれる男(内村光良)と、さらに驚いたことには三蔵法子そっくりで、法師と呼ばれる無口で謎めいた雰囲気の漂う男(深津・二役。その姿は「男装の麗人」「東洋のマタハリ」などと呼ばれた戦時中のスパイ・川島芳子を髣髴させる)と、三人の兵士たちが猪木が眠りから覚めるのを待っていた。しばらくは自分の置かれた状況がまったく飲み込めない猪瀬(三人からは猪八戒と呼ばれることになる)だったが、次第に自分が中国大陸で戦闘を続ける一小隊の兵士であることを自覚していくようになる。

 それにしてもこのドラマにおける孫悟空の横暴ぶりは凄まじい。部下である悟浄や八戒を精神注入と称してことあるごとに張り倒すのは日常茶飯事であり、さらには中国人の住む集落を見つければ容赦なく家々を焼き払ったあげく、住民を老若男女問わず虐殺することをいとわない。その冷酷な演技は、あの香取慎吾がここまでやるのかと鳥肌が立つほどであった。また、ドラマが進むうちに内村光良演じる沙悟浄が実は朝鮮人であることが明かされ、それでも彼が日本人に何とか同化しようと、必死になって上官である悟空の命令に従うさまが描かれる。たとえば攻撃の意志がないことを泣きながら説明しひたすら命乞いをする老人に対し、強い抵抗を感じつつも悟空の再三の命令には逆らえずとうとう銃殺してしまう……というぐあいに。かたや三蔵はといえば、悟空のどんな命令に対しても淡々とそれを遂行し、悟空からは大いに気に入られている。

 三人と何日も行動をともにしているうちに、最初は戸惑っていた八戒もやがて敵を殺すことにあまり躊躇を感じなくなり、むしろそのことに快感を覚え、自分は大東亜解放という大義のために戦っていると信じて疑わなくなっていくのだった。若さゆえの適応力というべきだろうか。そんなある日、ちょっと用を足している隙に八戒は隊からはぐれてしまう。誰もいない荒野を、隊を探し求め昼夜彷徨い続ける八戒。だが、とうとう疲労はピークに達し、大地に突っ伏してしまうのだった。

 気がつくと、彼はどこかの家の中に寝ていた。「気がついた?」と八戒に片言の日本語で話しかけてきたのは、凜凜(水川あさみ)という満洲族の娘だった。どうやら彼女は八戒が倒れているのを見つけて、自分の家まで連れてきて介抱してくれたらしい。満洲族と日本人はともに満洲国を建国した同胞ということになっていたが、それでも凜凜以外の家族や同じ村の者たちの日本人に対する心証はすこぶる悪かったため、彼女は八戒が日本人であることをひた隠しにする。

 数日間、凜凜の家で静養しているうちに調子を取り戻した八戒。そこへ突如として法師が現われ、八戒と再会を果たす。喜びも束の間、法師は八戒に「もうすぐ悟空がこの村を襲う。だからおまえは村人たちを連れていますぐ逃げるのだ」と告げる。満洲族は同胞だというのになぜ? 問いただす八戒に、法師は「悟空は狂ったのだ。満洲国を乗っ取り、自ら皇帝になろうとしている」と説明し(ここで語られる悟空のイメージは、映画『地獄の黙示録』のカーツ大佐と重なり合う)、さらには自分が本当は漢民族で、中国国民党のスパイであること、そのために悟空の率いる小隊に潜入し、彼と肉体関係をも結んでさまざまな情報を聞き出していたことなど、すべてを洗いざらい八戒に打ち明けるのだった。しかし八戒は法師がなぜそんな極秘事項を自分に明かしたのかわからない。一体どうして? と問う八戒に、法師は「わからない。でもわたしはもうすぐ死ぬ。死ぬ前になぜだかおまえだけにはすべてを打ち明けておきたかったのだ」とだけ言い残して、その場を去っていく。

 果たして悟空は、悟浄のみならずどこから呼び寄せたのか大軍を率いて凜凜の村に襲いかかってきた。気がつけばもはや周囲は火の海だ。

「八戒、逃げてっ!」

 叫ぶ凛凛。しかし彼女を置いて自分だけ逃げるわけには行かない。八戒は凛凛の手をどうにか掴まえると、そのまま彼女を連れて駆け出した。そこに悟空が立ちふさがる。

「久しぶりだな、野豚君」

 そう吐き捨てるように言うと、悟空は八戒の喉下に短刀を突きつけ、驚いたことに

「殺されたくなければ、いますぐその女を俺によこせ。いや、おまえがその女を犯せ。そして殺せ」

 と信じられない要求をしてくるではないか。

「凛凛、逃げろ!」

 八戒が言っても凛凛はけっしてそばを離れない。

「どうした? 俺の言うことが聞けなければおまえもその女も一緒に殺すぞ」

 とその瞬間、悟空の頭が撃ち抜かれる。彼は頭から血を噴き出しながら地面へと斃れこんだ。同時に激しい地鳴りと爆裂音が轟く。何と、八戒と凛凛の前へ何台もの戦車が突進してくるではないか。それはソ連の戦車部隊だった。日ソ中立条約により、ソ連が日本の保護領である満洲を襲撃することなどありえないはずだが……そんなことを考える暇もなく、わき目もふらず逃げ出す八戒。途中までは凛凛を連れていたはずだが、いつの間にか彼女はいなくなっていた。そのことに気がついた八戒は、立ち止まって彼女の名を大声で呼ぶ。すると、彼の背後のしげみからガサガサと音が聞こえた。「凛凛か!?」と振り返ると、その目の前には銃を構えたソ連兵が……それを八戒が認識したときにはすでに遅く、弾丸は彼の心臓を貫いていた。意識が遠のくなかで、どこからか法師の声が聞こえてくる――

「猪瀬君、猪瀬君!」

 それは法師ではなく、三蔵法子の声だった。猪八戒は意識を取り戻し、また猪瀬信八と呼ばれる二一世紀の男子高校生となっていた。一体いま自分が見たのは何だったのか。夢? それにしてはやけにリアルだったような気がする。いつまで経っても答えが出せずにいる猪瀬に、三蔵は怪しげなほほえみを浮かべるだけだった。

 猪瀬が下校したのち、真っ暗になった進路指導室で、パソコンで何やら文書を作成している三蔵。そのモニターには次のような文章が打ち出されていた。

「ミッション完了。取り急ぎ現段階での状況を報告します。/今回の被験者:猪瀬信八(17歳・男子)/硬化した歴史認識もいくぶん軟化した模様。しばらく様子を見る……」

  ■

 以上が今回の月九版『西遊記』のおおまかな(というわりには長々と紹介してしまったが)ストーリーである。残酷ともとれるリアルな戦場の描写、また、嬉々として中国大陸の人々を殺戮していく悟空や八戒の姿、あるいは悟浄が朝鮮人だったという設定、そしてつくり手の意図がきわめて読み取りにくいラスト(そもそも三蔵法子は猪木少年をどんな方向へと導こうとしていたのか?)など、さまざまな要素からこの作品は議論を呼んだ。しかも、韓国、台湾、香港、シンガポールなどアジアの各地域ではほぼ同時期に放映されたため、議論は日本国内だけにとどまらなかった。とりわけ韓国では、日本軍の行動にこのドラマが肯定的であるか否かをめぐってネットを中心に意見が真っ二つに分かれたという。

 だが、テレビドラマにかぎらず、すぐれた作品ほど簡単につくり手の意図を読み取ることができず、何通りもの解釈を許してしまうものではなかったか。その意味では、このドラマは久々に現われた「すぐれた作品」なのである。

 このドラマの制作が発表されたとき、かつて日本テレビで放映された『西遊記』(堺正章夏目雅子西田敏行岸部シロー=現・四郎らが出演)が何かと引き合いに出された。日テレ版の『西遊記』が放映されたのは一九七八年。日中平和友好条約が調印され、当時の中国副首相・鄧小平が来日した年である。そんな時代状況を反映して、『西遊記』では日本のテレビドラマにおいては初となる中国ロケが行なわれ、話題になったりもした(とはいえ、実際にはロケは富士山麓の自衛隊演習場周辺など国内で行なわれることがほとんどだったようだが)。また、『西遊記』の主題歌「ガンダーラ」や「モンキー・マジック」をヒットさせたゴダイゴはこの時期に中国でコンサートを行なってもいる。

西遊記』関連以外にも、この時期には、サントリーが初めて中国でのCMロケを行なっているし(一九七九年)、NHKでは日中共同取材によるドキュメンタリー『シルクロード』が放映されたりもした(一九八〇年)。また一九七二年の日中国交正常化の際に中国から東京の上野動物園に贈られた雌のパンダのランランが七九年に死ぬと、すぐさま翌年には代わりのパンダとしてホアンホアンが贈られている。そういうこともあってか、当時筆者は、日本といちばん仲のいい国は中国だと親から教えられた憶えすらある(まだ物心つくかつかないかというころで、記憶はおぼろげだけれども)。

 しかしこうした政治・経済のレベルにとどまらない当時の日中間の友好ムードというのは、いまにしてみれば隔世の感を抱かざるをえない。何しろ現在、日中関係は国交正常化以降最悪の状態にあるとまでいわれているのだから。そのなかにあって、フジテレビが中国の古典である『西遊記』の新たなドラマ化に挑戦し、しかも先に紹介したように過去の戦争問題を大胆にとりあげて翻案したことは充分に評価に値するだろう。いや、そうでもしなければ、かつて二八年前に日中友好ムードを反映してつくられ、ヒットとなった日テレ版の『西遊記』を乗り越え、新境地を開くことなど不可能だったはずだ。今回のドラマに対する日本だけにとどまらないアジア各地での過熱ぶりをきっかけに、肝心の中国本土でも放映が実現し、各国間の相互理解がさらに深まることを願わずにはいられない。